ホーム » Vol.1 » 永井一正

永井一正

永井一正[グラフィックデザイナー]

1964年のデザインシステムの完成度を越えるためには
2020年のオリンピック・パラリンピック開催が東京で決まったニュースを聞いて、私も大変うれしかったのですが、日本国民も大いに湧きました。その瞬間、脳裏に浮かんだのは、1964年の東京オリンピックのことです。
あのオリンピックの成功は、やはりデザインシステムの完成度にあったのではないかと思います。前回の東京オリンピックはデザインシステムが非常にうまくいったのですから、今回もそれを参考にして、それ以上のものができれば一番いいのではないかと思っています。

1945年に東京は焼け野原で敗戦を迎え、1960年に池田内閣が所得倍増論を唱えて、ようやく日本が好景気に向かいました。それにオリンピックが拍車をかけたことで、高速道路、新幹線、地下鉄網などのインフラ整備が急速に進んだのです。
前回の東京オリンピックの開催は、1959年にIOCの総会で決まりました。今回よりも期間が短かく急ピッチで準備が進められ、4年間の間にいろいろなものが変わっていったのです。
1960年に求められたのは、まずグラフィックデザインが稼動することでした。私も含めて6名が参加したシンボルマークの指名コンペがあり、そのときに亀倉雄策さんの名作が通ったわけです。自分は落選しましたが、その悔しさも忘れるほど、今回の東京オリンピックはこれ以外のマークはあり得ないだろうと思いました。
太陽、日の丸、五輪のマーク、1964というタイポグラフィ、1つ1つを切り離すとさほど珍しいものではありません。それらが1つになった造形力で、見事に日本を象徴するマークになり得たのです。
マークと組み合わせたのが、陸上男子、水泳のバタフライ、聖火ランナーの写真であり、有名なオリンピック3部作のポスターができ上がりました。今までのオリンピックのポスターで写真が付いたのは初めてですし、あえて写真を使ったという世界に残るポスターでした。一般の人もあの作品でポスターの持つ意味を噛み締めたと思うのです。

デザインシステムを機能させるためには組織が必要
デザインシステムを有効に稼動させたのは、デザイン評論家の勝見勝さんを座長にした当時のデザイナーやアートディレクター、評論家など10人を集めたデザイン懇談会です。それが組織委員会の中に入り込んだわけです。指名コンペやピクトグラムの制定など、すべてのものが勝見勝さんを中心に進められていきました。
田中一光、福田繁雄、杉浦康平、粟津潔、宇野亜喜良、横尾忠則といった若い人たち、当時は私も若かったんですが(笑)、われわれ若者が総動員され、ベテランの河野鷹思さん、原弘さんたちと一緒に手分けして仕事をしました。それぞれの役割を勝見勝さんから振り当てられたのです。
私は歓迎サインを担当したのですが、あのマークとオリンピックの5色があれば、大抵の場所の装飾が見事に統一されることを痛感しました。また、競技マークと施設マークもつくられましたが、今までのピクトグラムと比べて非常に完成度が高く、システムが完成されていったのです。
私は1966年の札幌冬季オリンピックのとき、指名コンペでロゴマークをつくらせていただきました。東京から札幌にいたる流れまでは、勝見勝さんを始めとした委員会、いろんな指名コンペのメンバーが力を合わせ、見事にデザインシステムが稼動していたと思います。
残念ながら長野オリンピックになりますと、絹谷幸二さんのポスターや、原研哉さんの賞状など、個別に優れたものはありましたが、全体としては統一がとれませんでした。これは大変な損失だったので、2020年の東京オリンピックでは、デザインの統一がとれたシステム化を図る必要があるのではないかと思います。

デザイン界が総力を結集する時
1964年のオリンピックは復興の途上で、いろいろなインフラ整備が盛んになりました。今回は街全体がオリンピックを迎える、おもてなしではないですが、サイン計画にしろ、美観にしろ、それらが東京の全体におよぶべきで、環境との調和が一番大切になってくるのではないかと思います。
中国や香港、韓国もデザインに力を入れています。日本のデザインが力を合わせて選りすぐりのものをつくらないと、世界に恥ずかしいものになるでしょう。
2020年の東京オリンピック・パラリンピックを機会に、日本の文化力やデザイン力を見せていくため、皆さんの協力を仰ぎたいと思います。