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松下 計

松下 計[アートディレクター]

コンサバティブになってしまう危惧
私は教育の現場にも身を置いています。オリンピックはスポーツの祭典でもありますが、平和と文化の祭典であるということが、定義の中に入っています。
7年後のオリンピック、このままいくと、私はかなりコンサバティブ(保守的)なものになりそうな気がしているのです。オリンピックにかかわる利権の大きさや、チェック機構が多いが故に、合意形成を得ることが第一目標になってしまい、次第にコンサバになっていくのではないかと危惧します。
ロンドンのオリンピックを振り返ると、そのことが想像できる気がしています。
オリンピック開催前、英国では「クールブリタニカ」という、行政マターのデザインプロジェクトがありました。この活動からは見るべきデザインが生まれ、成果がありました。ところが、それを経たオリンピックそのものは、筋書きのないスポーツの祭典としては心に残りましたが、私たちが関わっているグラフィックデザインや情報デザインの立場から冷静に見ると、大きな発見はなかった、非常にコンサバティブであったように思うのです。

今、日本も行政マターで「クールジャパン」というプロジェクトがあります。
必ずしもデザインのプロジェクトではありませんが、感性価値を世界に見せていく、文化発信のプロジェクトという点では同じです。それを経てのオリンピックは、最終的にどうなるか。やっぱり保守的になっていくのではないかと思うのです。

個人レベルの小さな批評がもてる仕組みづくりを
7年間をどう過ごせば、提案性に満ちた発見のあるデザインを世界に見せられるのか。それには、小さいかたちで「自分がもしオリンピックに携わるのだったら」という発想で、アイデアがたくさん出されることが大事だと思います。
行政マター、都マター、大手代理店マターではなく、個人レベルでたくさんアイデアを出していくことが必要だと思います。国民ひとりひとりの個人レベルで、小さな批評を持つのが大事だと思うのです。
例えばJリーグ。発足当初は、ニュースでボールがゴールネットに突き刺さるシーンだけを放映していました。しかし、だんだん皆のサッカーを見る目が肥えて来ると、どうパスが出されたのか、ボールがアシストされたのか。ゴールシーンだけでなく、流れの中で、コンテキスト(文脈)を持って見ることができるようになりました。
新国立競技場をめぐる議論も、ネットに突き刺さったゴールだけを見るのではなくて、手前の部分を共有して議論してはどうでしょう。ひとりひとりが、小さな批評を持てる仕組みが重要なのだと思います。

7年間かけて国民・市民レベルで意識を醸成させていく
ここで「ラーメン」の話をします。北海道から九州まで味はばらばらですが、ユーザーはどこにどんな味のラーメンがあるかは、だいたいわかっています。 海外の人に聞くと、これだけバリエーションがあるラーメンを理解するような、提供者とユーザーとの関係は奇跡的だと言われます。日本人はひとりひとりがラーメンを自分のこととして捉えているから可能なのだと思いますし、こうした批評を持つ素質を私たちは持っていると思います。
こうした背景には、お上が管理してこなかったことがあるのだと思います。自由に競争し多くの選択肢が群雄割拠の様相を呈していたことが、こうした環境をつくってきたはずです。それが醸成し、多数の選択肢がでたところで、大きな仕組みの中に取り纏めていくことが順番として必要であろうと思います。
オリンピックの施策が全て自分たちと関係のあることだと、7年間かけて国民・市民レベルで意識を醸成させていく。そのために小さなエキシビションや、出版、ウェブなどで表出することが大事だと思います。

個人レベル、プロダクションレベル、あるいは大学レベルで「私がオリンピックをデザインしたなら」から始めてみる。あるいは、途中段階のスケッチを描いてみる。それに慣れると、小さな批評が生まれていくのです。
オリンピックは誰のものでもなく、無色透明のメディアです。だから「私が 色を塗るなら」「私がカタチをつくるなら」といったレベルで施策をつくり、小さな批評をもつことが大事なのだと思います。
これを7年間でできれば、世界に誇れる日本の文化を7年後に表明できるはずです。