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勝井三雄

勝井三雄[グラフィックデザイナー]

未来への報告としての証言
私もまた、1964年の東京オリンピックに力を果たしたひとりです。今回、1つの証言として、どういう意味で前回のオリンピックのかたちがとられていったかを、未来への報告として話そうと思います。

オリンピックという祭典は、どこでも都市にやって来ます。亀倉雄策さんがつくった、前回の素晴らしいシンボルマーク。都市のオリンピックを示す「TOKYO 1964」というマークは、東京の大会で初めてつくられたものです。18回目ですけど、それまではつくられていなかったのです。
オリンピックのマークがつくられたのは1914年。万国博覧会に比べると、新しいイベントです。万博はオリンピックより50年も先に、世界に繋がるイベントとしてありました。
1867年に第2回パリ万博が催されたとき、日本からは江戸幕府と島津藩、佐賀藩、3者が出展しました。幕府が日本代表のつもりで行ってみたら、他の藩が2つも出ている。そこで話し合いをして、朱印船に立てるのぼりの「日の丸」を掲げることで、3者が手を結びました。
ヨーロッパでいちばん話題になったのが漆です。漆器、それは日本の工芸の最たるものでした。それから和紙。フランスのjaponという言葉に置き換わるわけです。日本の技術を海外に伝えた、最初のイベントだったんですね。
1つの考え方が提唱され、伝えていくのが万博。モノが伝播することで、産業を興こすのが万博です。それ以降、日本への認識は一転して、日本の文化性に対して注目を浴びました。これが万博の力です。

アイソタイプの起源
一方で、後から来たオリンピックは遅れていました。デザインに関わる表現もそうです。今ではオリンピックで当たり前となった、アイソタイプ(一連のピクトグラム)の起源についてお話ししましょう。
ヨーロッパでは、1920年代にオットー・ノイラートという人物がアイソタイプを考え、社会に実現するための国際ビジュアル言語をつくりました。しかし、それはオリンピックに使われていませんでした。なぜなら、それまでのオリンピックはすべて英語、フランス語、ドイツ語という言葉で通じる国々で行われていたからです。
それが、日本という漢字圏で行われたオリンピックで使われました。いかに70カ国の人たちとコミュニケーションを成立させるかで、アイソタイプが使われたのですね。
アイソタイプは、それまでの日本にも存在しています。かつて勝見勝さんは言いました。日本の「家紋」は、すべての着物に付いたり、漆器に付いたり、看板になったり、いろんな意味で定着して、生きている。そういう文化があると。伝統の上にアイソタイプの使用が成立したのです。
それらは国際オリンピック委員会に寄贈され、続くメキシコ大会からも使われました。ミュンヘン大会では、我々の尊敬するオトル・アイヒャーがそれを使い、デザインシステムを継承していく土台をつくったのです。後のオリンピックにも受け継がれるものが生まれたという意味で、東京オリンピックは革命的だった、と思っています。

次の世代に「希望」を残そう
今回、われわれが何を後世に残せるか、伝えられるか。われわれが考えなくてはいけない、非常に大きな問題です。
世界の人口は1900年に16億人、今は70億人です。急速に増えた人口の中に、飢餓と貧困にあえぐ人がいます。食料問題に直面する人たちが、世界には10億人以上いると言われます。
われわれは自分の文化を発信するだけではなく、世界と繋がるテーマをどこに見つけていくのか。あとの社会や世界にどのように継続させていくテーマを見つけなくてはいけません。
次の世代、子どもに何を残していけるか。それは「希望」だと思います。次の東京オリンピックでは、希望を残せるようなことをやらなければいけません。
世界に通じるものをテーマとして考える。どうか皆さんの視点、世界に繋がる我々の文化は何であるかを考えていただきたいです。そのうえで感動を共有したいと思います。