江戸の都市計画は、平川を中心に始まるが、荒川・利根川水系河口部という地理的条件を背景に、舟運による物流ネットワークが、列島規模の海運網にも連絡することで世界有数の都市が発展していく契機となった。本セッションでは、江戸から東京へと時代が変わる中、鉄道と道路という二つのモビリティがかたちづくってきた東京のアーバンデザインと、オリンピックを契機とした2020年以降の東京のモビリティとその都市像について議論する。
コーディネータ:中谷日出(NHK解説委員)
1.東京オリンピック2020 廣瀬隆正(東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会施設整備局 局長)
2.首都高速が変えた東京の風景 木暮深(首都高速道路株式会社 執行役員)
3.鉄道が変える都市デザイン 中野恒明(株式会社アプル総合計画事務所 所長)
4.遅い交通の時代:東京から地域へ 羽藤英二
5.座談:内藤廣×深澤直人×羽藤英二
<1>東京オリンピック2020
廣瀬隆正
(東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会
施設整備調整局局長)
動き始めた東京オリンピック・パラリンピック
招致が決まり、今年1月24日に大会組織委員会(一般財団法人)が設立されました。ご存知のように大会は、2020年7月24日から9月6日まで行われます。日本の招致計画は、そのコンパクトさが評価されました。晴海に「オリンピック・ヴィレッジ(選手村)」をつくり、約8Km圏内にほとんどの施設ができるという計画です。これは選手たちの移動の負担を軽減するとともに、「都心で競技を行い、できるだけ多くの人に見てもらいたい」という選手や各競技団体の希望にも沿うものでした。
大会までのスケジュールですが、来年、2015年2月には大会基本計画がまとまり、それぞれの役割分担も決まってきます。JSC(日本スポーツ振興センター)が新しい国立競技場をつくります。その他の大会後残る施設は、東京都がつくります。そして私たち組織委員会が仮設の施設をつくります。この3つの施設で競技が行われますが、それぞれの施設の周りにさらに仮設の構造物をつくる必要があり、その仕事も組織委員会が行います。これらの施設を使って大会を実行することが私たちの仕事ですから、今日のテーマの「移動」も、私たち組織委員会の仕事ということになります。
実現のためのスケジュール、組織分担、予算
現在新聞などのメディアをにぎわしてもいますが、招致計画どおりの会場で競技が実現できるのかどうか、そうした調整も来年、2015年2月に向けて固まっていくことになるでしょう。ただ、例えば、ソフトボールや野球を2020年の競技種目とするかしないのかをIOC(国際オリンピック委員会)が決めていませんから、来年の2月にすべての計画がかっちりと固まっている、ということにはならないかもしれません。
先日初めて大会組織委員会の「顧問会議」が開催されましたが、多数の政府や各界の代表の方々に参加いただきました。組織委員会に事務総長以下10の局が設置されていて、私たち施設整備調整局が今年の9月、最後にできた局となりました。現時点の職員数は約200人。今後どんどん増えていき、大会開催時にはさらに大きな組織になっていきます。
これら10の局が分担して、実際の競技や開閉会式をはじめ、プレスへの対応、会場運営、選手の宿泊やインフォメーションなど、「ファンクショナルエリア」として50に分けられた仕事を実施していくことになります。ここで重要なのが「エンゲージメント」で、国民のみなさんもともに大会をつくっていただきたいという考え方です。自治体や大学にも声をかけ、ご支援いただけるようにお願いしています。
予算は、誘致計画では、組織委員会で約3,000億円、東京都で約4,000億円弱と見積もられていました。もともと少なめに見積もっていたこともあって、この額で運営できるかどうかは少し厳しくなっていることも事実です。
大会開催のためのさまざまな対策を、
将来の日本のレガシーとしていきたい
先日、開催にあたっての目標となるビジョン骨子が、「スポーツには世界を変える力がある・1964年、日本は変わった。2020年、世界を変えよう。」と決まりました。前回の東京オリンピックでは、日本の戦後復興の力を国内外にアピールすることができました。2020年は東京オリンピック・パラリンピックの成果を世界に伝えたい、というのが私たちの考えです。
IOCのホームページには「オリンピック憲章」が掲載されています。1996年のアトランタ大会ではオリンピックが非常に商業主義的に運営されて、大きな批判を浴びました。その後2002年のソルトレイクシティ冬季大会ではIOCの委員の買収問題が発覚しました。こうした反省から、オリンピックは開催国に「レガシー(遺産)」として何を残すか、文化・教育との連携、ユニバーサルデザインの推進など、さまざまな要求事項が設定されるようになってきました。
最後に「移動」についてお話しします。
大会期間中の1日の最大の来場者は92万人と見積もられています。この移動を円滑にするために、今、バリアフリー化を徹底しようとしています。私は、日本はハード的な解決にこだわりすぎているのではないかと思います。ヨーロッパでは、駅の階段などで車イスの方が困っていると、何人かで担いで助けてくれます。そんなことは日本ではあり得ないことです。ハード的解決からソフト的解決へ、むしろ人々の意識を変えていく必要があるかもしれません。
また、東京はたくさんの鉄道会社の路線が運行されていますから、それらをどのように統合運行するのかを考え、また、トラブルが生じた場合は連携して、選手や観客をしっかりと会場へ送り届けるようにしなければなりません。道路では、大会関係者は専用レーン(オリンピックレーン)を使うことになりますが、そのために東京の日常交通が影響を受けますので、その管理もしなければなりません。もちろんICTの活用やサインの統一など、世界中の人たちが、クルマでも歩行でも、移動が圧倒的に便利でわかりやすくできなければなりません。
こうした「交通」に対するさまざまな対策も、オリンピック・パラリンピック開催の「レガシー」としていくことができればいいと考えています。
<2>首都高速道路が変えた東京の風景
木暮深(首都高速株式会社執行役員)
オリンピックを機につくられた首都高速道路
昔の東京の街は東京タワーくらいしか目立つ建築物はありませんでしたが、最近は高層ビルもどんどん建ち、諸外国の主要都市に比べても遜色がありません。そこに首都高速道路が果たす役割はいい面も悪い面もありますが、その責任は重大だと感じています。
首都高は首都・東京の渋滞緩和を目的に、1964年の東京オリンピックの開催を機に建設されました。現在は全長約300Kmに達し、また老朽化が進んだため大規模な道路の更新工事の必要も検討されています。オリンピックが開催された昭和30年代には、都内には路面電車が走り、クルマの保有率は約6%(現在は約84%)程度だったにもかかわらず、道路は大混雑でした。都市環状線と放射道路の整備から始まった首都高は、東名高速、中央自動車道、東北自動車道などの都市間高速道路と接続し、平成からは中央環状線などとのネットワークの整備が進められてきました。
その最初となったのは、羽田空港から東京オリンピックの会場となる武道館や国立競技場をへて、選手村のある代々木までの31Kmで、その最後の部分は1964年の10月1日、10日に開催されるオリンピック開会式の直前に完成したと聞いています。
首都高速道路は江戸の骨格に沿ってつくられた
首都高速道路は、江戸時代の街の骨格に沿ってつくられています。江戸は水運の街でしたから、首都高はその公共の空間である河川や運河を活用して整備されてきました。
たとえば中央区の采女橋付近では河川を暗渠にし、また築地川は埋め立てられ、そこに首都高を通しています。日本橋川では、橋の上をまたいだ非常に大規模な工事が行なわれました。個々の技術は現在も進歩していますが、基本的な構造や工法はこの時点で確立していて、かなりレベルの高い仕事がされていると思います。
首都高に先駆けて、これに接続する東京高速道路、通称KK線がつくられ、当時は東京スカイウェイと呼ばれました。今でも新橋あたりで見られますが、商業ビルの上にクルマを走らせたのはみごとなアイデアだったと思います。
また赤坂見附あたりでは、地形が窪んでいますから高架橋がよく見え、弁慶堀の曲線に沿うカーブなどはかなり美しいつくり方がされているのではないかと思います。第1部で話題になっていた渋谷も高架橋で駅をまたいでいますね。
これは決していい例ではないのですが、たとえば1号羽田線など、首都高の高架が低くて圧迫感がある場所もあります。5号池袋線では3つの道路が重なる場所もあります。大気汚染も問題になり、換気ファンが設置されたところもありますが、こうした高架下の環境や景観の改善も行ってきました。
オリンピックを機に更新される首都高速道路
首都高速道路の50周年のときに「東京がいちばん見える場所」という一般公募のキャッチフレーズがあったように、東京がいちばんよく見えるのが、じつは首都高なんです。また「かつしかハープ橋」や「横浜ベイブリッジ」、「レインボーブリッジ」など、長大橋がライトアップされて美しいのも首都高の魅力です。
首都高には、常に騒音や大気汚染、景観といった環境問題がありますが、これに対応して、平成以降は地下化が進められてきました。山手通りの地下には「山手トンネル」が20年ほどかけてつくられ、走行空間もきれいに整備され、「大橋ジャンクション」へと接続しています。それに伴い山手通りも拡幅され、換気塔のデザインにも気を使った美しい道路に生まれ変わっています。また、その大橋ジャンクションには、屋上に「目黒天空庭園」や「おおはし里の杜」がつくられるなど、環境にも配慮したものとなっています。
2015年3月に品川線(9.4Km)が開通すると、首都圏3環状の最初の輪「中央環状線」が完成します。そうすると首都高の中心となるネットワークの基本型はほぼ完成したことになりますので、今後はその使い方や、先ほどの築地川や日本橋川、東品川桟橋・鮫洲埋立部などの老朽化した部分の大規模更新・改修が進められていくでしょう。
2020年のオリンピックを機に、こうした高齢化した首都高を、以後100年くらいはもつように更新しつつ次世代へ手渡していくとともに、首都東京にふさわしい景観を創造していくことが、私たちに求められていると考えています。
<3>鉄道が変える都市デザイン
中野恒明(アプル総合計画事務所所長)
川の手、海の手を再生する東京オリンピック
私はこの春刊行された、『鉄道が創りあげた世界都市・東京』(計量計画研究所)という本の制作に参加してきました。ここには東京の鉄道会社や、第1部にあった渋谷のプロジェクトに関わる人々も多く参加していて、幾度か勉強会も重ねてきました。そのせいかどうか、渋谷のプロジェクトの「掃溜め再生」と呼ばれている渋谷川の再生計画に4年前から関わり、2020年の東京オリンピックには完成しているという予定で、近々着工することになっています。
また私は、在京TV6局による「新タワー候補地選定委員会」の委員兼幹事長を務め、「東京スカイツリー」の墨田区立地にに関わり、その関係で都の「隅田川ルネサンス協議会」の専門委員なども務めています。
私は、21世紀は「環境の時代」だと考えますが、そこには「山の手対川の手・海の手」という図式があるように思われます。つまり自動車社会に象徴される東京の西側への都市の発展に対して、2020年の東京オリンピックでは主に東側の臨海地域が中心となります。そこに何か歴史的な意味があるのではないか。今日はそんなお話をしたいと思います。
鉄道は、ご存知のように1825年にイギリスで発明され、わずか50年後の1872(明治5)年に、日本でも新橋・横浜間が開通しています。世界中どこでも、鉄道の主要な駅はだいたい海沿いにあります。日本でも新橋、汐留、秋葉原、飯田橋、押上など、当時の海や川に沿った場所にあります。こうした駅はすべて、横浜港とつながっていた船の拠点に貨物駅としてつくられていったわけですね。やがて輸送が水上から陸上へと切り替わると、東京駅のような内陸にも駅がつくられるようになります。ですから私は、臨海部を中心にして開催される2020年の東京オリンピックは、川の手、海の手の再生であると捉えるべきだと考えています。
「東京川の手線」ネットワークの構想
たとえば最近の東京駅や日本橋周辺の大きな再開発は、新宿や渋谷など西へと拡張した東京の中心を、再び東へ戻す、そんなポテンシャルを感じさせてくれます。
新たにつくられる予定の品川新駅は、羽田空港との連絡を視野に入れているでしょうし、京葉線とりんかい線の直通運転の構想も掲げられ、これも東への拡張だと捉えられるでしょう。もちろん東京スカイツリーの建設は、西から東への流れの大きなきっかけとなるものでした。川の手・山の手といった湾岸の開発は今後進んでいくと思いますが、そこでは防災や水辺を生かしたまちづくりが期待されます。
試みに2020年の東京オリンピック会場の地図に東京の交通網を重ねると、湾岸の交通網が希薄であることがわかります。しかしここには貨物鉄道がいくつかあり、これをうまく連携すれば利便性も向上するのではないかと考えています。
「隅田川ルネサンス」のプロジェクトでは、水辺を市民に開放していく方向性で動き始めています。水辺は夜景がきれいですから、川沿いのライトアップの見直しも進めています。とくに橋梁のライトアップでは、2020年までに光源を全面的に水銀灯などからLEDに切り替えることとなるでしょう。
この地域の交通を、鉄道を軸として考えると、主流になっている高架鉄道の下を有効利用することが考えられます。また新橋を出発する「ゆりかもめ(東京臨海新交通臨海線)」は豊洲止まりですが、近くにはJRの「越中島貨物線(総武本線越中島支線)」の越中島貨物駅があり、この線は亀戸をへて小岩駅までつながっています。亀戸からは「東武亀戸線」が東京スカイツリーまでつながり、浅草から新橋までは銀座線がありますから、ある意味では山手線に対して、「東京川の手線」のネットワークができるのではないか、そんなことも考えられます。
次々と生まれ変わりつつある世界の「駅」
最後に世界の駅を見てみましょう。
ロンドンのキングスクロス駅はオリンピックに合わせて大きく変わりましたし、セントパンクラス駅もきれいになり、リージェント運河も再生されています。パリも、東駅、北駅などすべての駅を改修中で、とくにオーステルリッツ駅は大胆な改修が進められています。それとともにサンマルタン運河も改修され、ヴィアディックデザールでは、かつて鉄道の近郊線だった高架が遊歩道になっています。
ベルリン中央駅も大々的につくり替えられ、立体的なすばらしい駅舎が誕生しました。同時に古い運河との連続性を復活させ、スムーズに遊覧船に乗り換えることができるようになりました。アムステルダムの中央駅も、海の駅と陸の鉄道の駅が連携する場所となっています。またコペンハーゲンの街は、ストロイエという歩行者空間が有名ですが、近年自転車都市として注目されていますし、市営の水上バスネットワークも充実しています。
さらにニューヨークでは、ブロードウェイのタイムズスクエアにおいて2009年に実験を行い、現在では歩行者空間化のための本格的な工事が始まっています。また、廃線になった鉄道の高架をそのまま遊歩道にした「ハイライン・プロジェクト」も大成功を収めています。
<4>遅い交通の時代:東京から地域へ
羽藤英二(都市工学者)
人はなぜ多くの時間をかけて移動するのか
アサギマダラという蝶は、南は台湾から北は日本の福島県まで「渡り」をする蝶で、ちょうど今くらいの時期は四国の遍路道あたりを、ヒヨドリバナの蜜を吸いながら渡りを続けているころだと思います。海を渡る蝶として知られていますが、どうやって渡っているのかはまだ解明されていません。
その道筋には、8月から11月まで白い花を咲かせるセンブリや、ツリガネニンジン、ツワブキ、ヤッコソウ、ハマラッキョウなどが咲いています。高知には、今日のスピーカーでもある内藤廣さんが設計された植物学者の「牧野富太郎記念館」がありますが、これらの植物はすべてこの牧野富太郎が名づけたものです。記念館に行くと、牧野が歩いて記録し、植物を名づけていった研究ノートがあります。
牧野が名づけたひとつに、「アシズリザクラ」という桜の木があります。「ちょうどここの山の神さまゆうものを奉ちょったがね、切る人が嫌がって、国営がとまったがよ。白い桜がぼっと一本だけ変わった桜が咲きよるねえ」と、戦後の農地改革で田んぼをつくるときに、村人がこの桜を切ることを嫌がったので山師が切るのを止めて、工事が止まったという話が残っています。これが今は「月光桜」として、東京から8時間もかけて人がわざわざ見に行くような観光資源ともなっています。
人はなぜ移動するのかは一口には説明できませんが、アサギマダラと同じように、桜ひとつ見るために非常に多くの時間をかけて移動する方もいらっしゃるということですね。
非中心化しつつ巨大な核となる未来の東京都市圏
都市は、移動によって拡張を続けてきたと言っても過言ではありません。そこには4つの移動革命があったと考えられます。第一次は1100年の十字軍の遠征(陸上交通)による小都市の勃興。次は1500年頃の大航海時代と港湾都市の登場。第三次は産業革命によってできたメトロポリス。日本では1960年代に「明治100年論」が起こり、明治のインフラをつくり変えようとする際に首都高速道路も建設され、戦災からの復興を印象づけていくことが行なわれました。
そして第四次のバーチャルな移動革命、つまり情報革命が起こります。コミュニケーション・ネットワークの革命によって、都市が今までとはまったく違ったものへと転移しようとしているという状況です。19世紀、20世紀と比較すると、2050年の都市の速度、つまり情報が行き交う速度は果てしなく高まっていると予想されます。その中でフィジカルやバーチャルな都市像をどのように描いたらいいかは、なかなか一筋縄ではいかないと思います。しかし、江戸時代以来培われてきた日本の移動の文化や生活体験は、決して消え去ることはないと思います。その重なりの中でどんな東京像を描くのかが今問われている。それが私の問題提起です。
2050年に向けてリニアモーターカーが整備されると、40分の移動圏内に約4000万人がいるという、世界に類を見ない「核都」する東京が生まれます。それは現在の東海道新幹線の役割や、品川駅のような交通の結節点の役割をまったく変えるものでもあると考えられます。
その反面「山手線ネックレス」といわれるような、池袋、新宿、渋谷、東京、上野といった現在の主要駅の駅成圏をシミュレートすると、非常に縮小していくことがわかります。これは高齢化によって65歳以上の世帯主は現在の約3倍になり、通勤者が相当数減少するためです。彼らは主に自宅まわりで生活しますから、ここでは「非中心化する東京」と表現していますが、今までの首都像とはまったく違う像を描く必要が生じてくるものと思われます。
まったく新しい都市の概念を創造することが必要
海外に目を向けてみましょう。
アフリカのナイロビでは、目的をもった大きな移動を「サファリ」、あたりをうろうろ徘徊する小さな移動は「テンデア」と言います。「モビウスモータース」という自動車会社は、このテンデアに向けて、悪路でも走ることができ、しかも携帯電話で部落民同士連絡をとりながらクルマをシェアするという、新しいクルマ利用の概念を生み出しています。
またカーシェアリングとしては、「ダイムラー」がデュッセルドルフで運営している「Car2Go」があります。こうしたカーシェアリングは乗り捨てができますから、買い物の範囲も今までより大きくなります。これは都市の回遊のかたちを変え、都市戦略を大きく変えるものです。渋谷の駅周辺再開発プロジェクトでは、私は桜ケ丘街区に参加しているのですが、そのような方法が使えないかと考えているところです。
パリではニコラ・サルコジ大統領が、約1,160万人を擁するパリを20の都市圏に分割するというプランを提案しました。人口50万人規模の都市に再編しようということです。これは数字遊びにも見えますが、たとえば東京は非常に地形に恵まれていて、大きな界隈や小さな界隈など、歴史に彩られたさまざまに個性的な地域があります。こうした地域を独立の都市や、都市の重なりと捉え直すことで、都市の新しいかたちや都市間の新しい交流、モビリティの新しいかたちを生み出していけるのではないかと考えます。
サルコジは選挙で負けましたが、セーヌ川に沿ったパリ、ルーアン、ルアーブルという地域を高速鉄道TGVで結ぶ、「セーヌ川首都圏構想」も提案していました。セーヌ川と高速鉄道、川沿いの旧街道といった、速い交通と遅い交通を結びつけることで、まったく新しい都市空間像を描いていたのです。こうした新しい都市の概念が、2020年、またその先に求められているのではないかと思います。
今回のこの会議に併設した渋谷の「ヒカリエ」での展示では、学生と「消滅する国土 東京2050+」という作品を制作しました。日本を256の都市に分け、1550年から2050年までの人口の変化を視覚化した作品です。一番大きいのは東京で、二番目は京阪神、三番目は名古屋です。東京が恐ろしい勢いで拡大してきたことがわかります。逆に、人口が減少に向かう都市は黒く塗られていて、その数は全体の9割以上に達し、未来は必ずしもバラ色ではないこともわかります。
しかし1550年の側から見てみると、都市的な活動は関西が中心となっていますが、この当時から実に多様な地域がバランスのとれたかたちでそれぞれ関係しあっている姿が見えてきます。諸国に目を配り、流動しながら為替信用取引を積み重ね、地域が成り立っていたようすがわかります。
こうした古来の日本の流動のあり方を踏まえ、2020年、さらにその先の未来をつくっていくことこそが、私たちに与えられたミッションだと思います。
<5>座談会:東京に今何ができるか?
内藤廣+深澤直人+中谷日出
中谷◎では時間もありませんので、最後に、まとめに代えて一言ずついただきたいと思います。
内藤◎頭がパンパンですよね(笑)。今日は、結論は出さないということですが、情報については思いのほか語られなかったですね。僕自身は情報革命をあまり楽観的に考えていなくて、2020年、2030年にどのくらいわれわれを変えているかは予測が立たないと思っています。それがデザインや都市にどういう影響を与えるかは、これからの課題でしょうね。僕は、19世紀に鉄道が国家のかたちを変え、20世紀は自動車が国家のサイズを変え、今度は情報がわれわれをどう変えるのか、そのあたりを、もう少しみなさんからお聞きしたかったと思います。
深澤◎たとえばハロウィーンで渋谷に集まった若者たちは、おそらく同時に「LINE(ライン)」や「WhatsApp(ワッツアップ)」といった通信アプリケーションでもつながっていて、そこには目に見えるだけではなく、目に見えないコミュニケーションがすでにあるのだと思います。その将来がどうなるか、というより、今すでにその「将来」という状態だと思います。今後はそのスピードや問題点が解決されていくでしょうけれど、そのネットワークはすでにできている。ただ、実際に人が集まることや人が移動する交通のネットワークは人間の身体に関わることですから、その分進化が遅いということだと思います。
情報の革命は誰か傑出したひとりが起こすものではなく、使った人全員が生み出していくもので、これからはそういう時代になっていくでしょう。
たとえばコンピュータ・ストアでは、客は非常に高価なものを買っているのですが、キャッシュではなく、カードをスキャンしてその場で決済しています。そこでは、情報の操作を知っている人も知らない人も同じようにハプニングしてしまう可能性のある状況になっていて、そのプラットフォームがどうなっているのかもわからない状態です。こうした情報の状況に比べると、人間の住む都市は人間の身体に深く関係していますから、身体的なインタラクション、インターフェイスという視点を忘れると破綻が生じると思います。
僕は、交通の進化はクルマの誕生から始まっていると考えていますが、その進化のかたちはまったく変わっていなくて、相変わらず大量に生産して方々に配っている。そんなふうにマーケットを広げようとしていますが、今の渋谷の状況を考えると、今のクルマでは調子が悪くて、もっと違うものに生まれ変わらなければいけないと感じます。
オリンピックでは何かが変わらなければいけないと思います。しかしこの6年間の情報コミュニケーションの進化はめざましいでしょうから、スタジアムに人が集まって、彼らの移動をどうするのかという話よりも、オリンピックをどんなメディアでどのように体感するかを考えることの方が重要ではないかと思っています。情報コミュニケーションをどのように見ればいいのか、どんな機能を発揮させればいいのか。これまでは目と耳だけで楽しんでいたオリンピックを、競技場に行かなくてももっと人間のセンサー全体で感じ、一緒に喜びあえるようなものにしたい。これは6年の内にあっという間にできてしまうでしょう。
しかし、そこに対しての総合プロデュースは一体誰がやるのか、僕はそれを心配しています。フィジカルなことよりもソフト的なことを牽引し、束ねていける人が必要ではないか。石を投げ込むだけでもいい。そうすれば自然に波紋ができますから、そういう人は必要だと思います。
僕は2020年の東京オリンピックでは、フィジカルなものごとよりも、そういう情報の体感の仕方、体現の仕方が求められるのではないかと思います。フィジカル(ハード)なものごとはつくるだけでも費用がかかりますから、そちらを抑えてでも、もっと別のことを考えるべきだと思いますね。
羽籐◎「情報は移動を代替するか」、これはわれわれの分野でも永遠のテーマとして研究され続けています。わかっていることは、過去においては、情報は人の移動を触発してきたということです。ですから、情報が進めば進むほど東京に人が集まりました。しかし最近の研究では、この移動が減り始めている傾向も見えてきました。私の個人的な感覚では、世界遺産も非常に高解像度の映像で見れば満足してしまって、わざわざ見に行く必要もないと思ってしまう。情報は移動を、かなりの部分代替するんだろうなと思います。
少し古いSFで恐縮ですが、アーサー・C・クラークは『地球幼年期の終わり』の最後で、子どもたちが、話さなくても目をつむって互いにコミュニケーションがとれる姿を描いています。彼らは希望としてそのように進化していくわけですが、しかしこのエンディングは、前世紀の私たちにはとても寂しく感じられ、人が生きる世ではないという気がします。それが非常な断絶、非常な孤独に感じられるんですね。
ですから今、われわれが何をテクノロジーとして社会にインストールし、何を選ばないと判断するのか、その選択が求められているのだと思います。これまでのように選択しないままでは、たとえば「広場」が定義されないまま都市計画の中で扱われ、できるところにはでき、必要なところに必ずしもできてこなかったように、極論すれば、欲望は集積し、人口は減少し、社会としては衰退の局面に入っていくでしょう。
オリンピックを契機とするというのもおこがましいですが、オリンピックは、東京というもっとも情報やモビリティ、都市の文化が成熟しているところでさまざまな要素をつなぎあわせ、イメージを重ね合わせて、それを世界の人たちと共有できる機会だと思います。そこでこそ、リアルな都市空間、コミュニケーションのあり方、情報との接し方、暮らし方において、われわれは何を選び、何を選ばないかを判断していく、そういう局面となり得るのではないか思います。
内藤◎昨年僕は、東日本大震災で大きな被害を受けた大槌町の戦略会議に参加していたのですが、大槌町は三陸で初めて人口動態を公表し、2020年あたりで大幅に人口が減ることが予測されました。これに地元紙である『大槌新聞』の女性記者が烈火のごとくに怒って、「そうならないためにどうしたらいいかをあなた方に聞いているのであって、そんな話を聞いても仕方がない」と。しかし僕は、そういう運命論的な状況に対して、計画やデザインで何ができるのかという発想の仕方があるのではないかと思います。もちろん実現できないかもしれませんが、不可能性に挑戦する、つまりクリエイトするということです。こういう社会に住みたいということを明快に思い描いて、そこに向かって技術やデザインに何ができるのかを問う、そういう考え方もあるのではないかと思います。
深澤◎日本の産業は細かいところから考えていきますが、アメリカの産業は、多くの人がこうするだろうという大きな視点からまず考えます。日本ではビジネスの基本的なプラットフォームを考えようとしないで、細分化したそれぞれに対しての配慮を考える傾向があり、根本的な掌握の仕方がアメリカと全然違うんですね。ですから2020年のオリンピックでは、交通も未来の都市のつくり方も、その根本から変えてしまうものはいったい何か、ということを考えた方がいいのではないかと思います。
これは今まで考えたこともなかったことですが、たとえばユニバーサルデザインと言い始めて10年ほどになりますから、家の中の段差はかなりなくなりました。しかし外に出れば道路や乗り物、建物にも段差があって、これはまだ解決されていません。もし世界中の段差がコントロールできたら、とんでもなく住みやすい世界ができるのではないか。そういうことが「兆し」であり、それに気づくことで世界が瞬時に変わってしまうこともあると思います。そのきっかけはささいなことで、それを探せるかどうかが重要なのです。
その意味で「段差」は僕のキーワードで、これからは段差をなくす運動を始めようかな、と思います(笑)。実際にミラノの駅ではプラットホームが上がって、電車との段差がなくなりました。スイスでは路面電車に段差なく入ることができ、そうすると「移動」を感じさせられなくなります。隣りのお店まで電車で行くという感じで、同じ平面の上での移動がどんなに楽であるか、これは体感しないとわからないんですね。建築と情報が融合する必要は、そういうところにもあるのかな、と思いますね。
羽籐◎私は陸前高田の復興をお手伝いしていますが、津波の浸水域には住めないとすると、もうあまり土地はありませんから、新しい町はかなり起伏のあるところにつくらざるを得ません。内藤さんも言われたように人口も減っているけれども、それでもなおそこに住もうとする人もいる。それは何なのか。そこを汲み取るようなデザインも必要だろうと非常に強く感じています。
内藤さんは昔「応答性」という言葉を使われていましたが、空間をダイレクトに感じる、そこから動き出したりコミュニケーションが始まる。その強さ、確かさはやっぱりあると思います。その中でバリアになっているところにはテクノロジーやデザイン、空間構成で解決していけばいいと思いますが、空間をダイレクトに感じるという立脚点を間違わないことは、相当重要ななことではないかと思います。