かつて丹下健三が構想した東京計画1960から半世紀以上が経過し、豊かな地形と世界有数のモビリティネットワークを有する東京を取り巻く環境は大きく変容を遂げた。中国鄭州をはじめ世界の様々な都市の将来ビジョンを構想し、そのアーバンデザインを今なお牽引しつづける磯崎新を迎え、渋谷のアーバンデザインを構想する内藤廣と妹島和世が、都市デザインの現場から東京のアーバンデザインについて議論する。
コーディネータ:羽藤英二(都市工学者)
1.都市を構想する 磯崎新(建築家)
2.都市をデザインする 内藤廣(建築家)
3.渋谷をデザインする 妹島和世(建築家)
4.座談:磯崎新x内藤廣x妹島和世
挨拶
桑原敏武(渋谷区長)
渋谷区は、長年にわたって渋谷を、日本を代表する建築、デザインの街にしようと新しい「まちづくり」を進めてきました。渋谷駅周辺の大改造を機に、独自の歴史、文化を武器とした「渋谷らしさ」をさらに強化し、100年先にも持続する街にしていきたいと考えています。その中間目標となる2020年の東京オリンピック・パラリンピックでは、渋谷から世界へ、新旧の日本の多彩な文化を正しく世界に発信していく必要があると認識しています。
都市のデザインについて、この渋谷駅再開発では2011(平成23)年にデザイン会議を設置し、内藤廣先生に座長をお願いして、渋谷らしい景観を強化するために渋谷駅周辺の非常に複雑な大規模開発におけるデザインの調整にあたっていただいています。そこでは、妹島和世先生を始め、著名な建築家の方々にもご参加いただき、二十数回にわたる会議を重ねて、「渋谷らしさ」とは何か、またそれぞれに近接する街区の相互の関係性を考慮した景観形成について検討をお願いしてきました。他方、「ハチ公前広場」に代表される駅前広場などと、周辺の街並みや開発の建物、こうしたものを一体的にとらえての景観デザインの関係性の構築は、東京大学の中井祐先生にお願いして進めております。
駅周辺の再開発計画では、渋谷駅に降り立ったときにすぐに渋谷だとわかる、都市としてデザインされた広場、人と人との出会い、文化が交わり新しい何かが生み出されていくこと、若者が自由にアートし発信できる街、をコンセプトとして進められているところであります。今後は、災害時の帰宅困難者対策、中長期的な課題として、駐輪場や分煙施設の設置、災害との関わりもあるWi-Fiによる情報の発信、緑化など、さまざまな課題についても検討していく必要があると考えています。
高齢化社会に備え、渋谷の将来に備えて、さまざまな視点から検討し、世界中から注目されるこれまでの渋谷の特性を併せ持つエンターテインメント・シティとして発展していくためにはデザインの力を活用し、都市の魅力を積極的に発信していくことが必要と考えております。専門家の皆様のお力をお借りしながら、渋谷のまちづくりをより強力に推進してまいります。どうぞよろしくお願いいたします。あわせまして、内藤廣先生には大変お世話になり、ご指導いただいて、今日まで来ておりますことを心からお礼を申し上げ、ご挨拶とさせていただきます。
<1>都市を構想する
磯崎新(建築家)
100年前に描かれた未来の都市像
ちょうど100年前、2014年にイタリアのアントニオ・サンテリアという建築家が「新都市」というドローイングを発表しました。彼は20代で戦争で亡くなってしまいますから、とても若いときの仕事ですが、私は、この「未来派」に属する若き建築家の仕事こそ、20世紀以降の建築の最先端のイメージを描いた、最初の未来都市像だったと考えています。
というのも彼は、未来の都市を交通と建築物の結節点と考え、駅、空港、港など交通の集まる場所の建築をどうデザインするかが重要であることを示しているからです。しかしその問題は世界的に見ても少しも解決されないまま、ようやく50年前ころから少しずつその解決が考えられ、実現されるようになってきました。
交通の要所である渋谷に登場した駅ビル「東急文化会館(1956年)」のオープンもそのひとつです。設計者は坂倉準三さん。今は取り壊され、その跡地を含む駅周辺の再開発を、ここにいる内藤廣さんや妹島和世さんが手がけられています。
東急文化会館は4つの映画館やプラネタリウム、駅に直結する歩道橋など雑多な要素をもつ今までにないビルディングタイプで、どういう種類の建築かを表現しにくいために、「これは坂倉さんの駄作じゃないか」とも言われました。50年前でも、交通と建物の関係の認識は、その程度だったんですね。
1960年、東京が世界デザイン会議を開催
もうひとつ、1960年には世界中の建築家やデザイナーが結集した「世界デザイン会議」が東京で開催されています。僕は大学院の学生で、すべての会議に出席しましたが、これは日本で初めて「デザイン」が社会的な話題となった会議です。
当時はまだデザイナーという言葉もなく、「装飾屋さん」だったんですね(笑)。行政の受け皿もなく、ようやく通商産業省(現経済産業省)にデザイン課ができて、アメリカのアスペンで行われていた世界デザイン会議を、何とか日本で実現できないかと考えてつくりあげた会議でした。
資本主義社会では、市場に出す製品には他よりも良いという「差異」をつけるために装飾が加えられました。それが「装飾屋さん」の仕事でした。しかし「デザイン」は単なる飾りではなく、もっと違う役割を担う可能性をもっているんだということを社会に伝え始めたのが、この60年代だったのです。
そして1964年には東京オリンピックがあり、総合ディレクターの勝見勝さんに呼ばれて、僕も杉浦康平さんたちとともに、渋谷の街のサイン計画をつくりました。グラフィックだけではなく、サンドイッチマンのように人にサインを持たせて街に立たせたのですが、つい先日亡くなった赤瀬川原平さんは、そのときアルバイトでこのサンドイッチマンになったということでした(笑)。
都市の広場、都市の管理、都市の法規
1970年、大阪でアジア初の万国博覧会が開催され、総合プロデューサーの丹下健三さんの下に、会場をひとつの未来都市としてつくることが構想されました。栄久庵憲司さんが初めて「ストリートファニチュア」をつくり、尾島俊雄さんが冷暖房システムをインフラとして構築したり、曽根幸一さんが「動く歩道」をつくるなど、建築物ではなく、都市を形成するモノやシステムを一からつくっていったわけです。
僕は「お祭り広場」を担当しました。会場を未来都市のひとつのモデルだと考えると、その都市計画に必要なものとして、僕は「広場」をぜひ認めてもらいたかった。というのも、今でもそうですが、広場は法的には道路の延長で、人が座ったりたむろしたりできない場所なんです。そこに、せめて一石を投じておきたいと考えたのです。ですから、イベントが自然に発生するような広場をつくることに固執したわけです。その実現には、都市の安全や円滑な利用をサポートする警備システムの構築も同時に必要でした。
現在も渋谷の「ハチ公前広場」は道路の延長で、そこで人が集まったりイベントを行うのは、法的には認められていません。万博の「お祭り広場」では、屋根の下の中庭のように室内化することで管理を容易にし、なんとか「広場」として実現させたわけです。現代では都市の管理のシステムも変わり、デジタルな情報が都市の中を自在に行き交う時代になっています。この時代にどんな広場や都市が可能なのか、僕はアナログ時代の人間ですから、この50年間の私たちの苦心や失敗談をお話するにとどめて、次の時代の話は内藤さん、妹島さんにお任せしたいと思います。
<2>都市をデザインする
内藤廣(建築家)
渋谷で今、何が起こっているのか
今、渋谷で何が起こっているのかをお話ししようと思います。
渋谷駅周辺が都市再生緊急整備地域に指定され、私はその委員会の副座長を務めています。6千億円を超える総事業費をかけて渋谷を全部改造するという、非常に大きなプロジェクトです。その委員会の下に都市計画の基盤を議論する委員会とデザインを検討する2つの委員会があり、私は前者の副委員長と後者の委員長を務めています。
ところで先週の金曜日、10月31日の夜、渋谷がどんなふうだったかご存知ですか? 午後11時ころでしたか、食事を済ませて街に出てみると、血だらけのメイクの人や仮装の人、ふんどし姿の人など、ハロウィーンで思い思いのいでたちの人たちが街にあふれていた。トイレに行けばそこで彼らが着替えをしているし……、もう無茶苦茶です(笑)。しかしその光景を見ていると、渋谷からこういう風景がなくなるような都市計画は間違いなんだろうな、と思いました。
僕らの学生時代の学生運動も似たようなものですね。違うとすればハロウィーンは自己表現してエンジョイしている。学生運動はプロテストですね。けれど結局は同じかもしれませんね。学生運動に参加した学生たちもそんなに深い考えがあった学生ばかりではなく、時代や方向性は変わっても、実は同じことが起こっているようにも思われます。
巨大な都市計画で街の「魅力」はつくれるのか
現在進められている渋谷駅周辺の計画は、そういう細部までは考えられていなくて、もっぱら法律的な枠組みと行政的な仕切りと、事業者の収支のバランスで進められてきてしまいました。そこでの「デザイン」の役割があるとすれば、事業的な閉鎖系を開き、開放系に変えていくことかもしれない。それができるかできないかは、現在挑戦中ですが……。
プロジェクトは、特区申請を出して容積割り増しを認めてもらう替わりに、社会貢献とインフラ整備をしっかり行うという交換条件で進んでいます。非常に複雑なゲームで、国を行司役に、東京都、渋谷区、JR、東京メトロ、東急といったたくさんのプレイヤーが参加しています。
プロジェクトでは、駅を中心として2つのタワービルの建設が予定される「駅街区」を始め、「道玄坂一丁目街区」、東急線跡地の「南街区」、「桜ケ丘街区」と大きく4つ、駅街区をビルごとに2街区と数えると、全部で5つの街区をつくることになります。
渋谷には世界一といわれる交差点があります。決してきれいな街ではありませんが、非常に魅力がある街です。建築家が設計するとこうはならない。計画的につくり出せる魅力ではないんですね。にもかかわらず巨大な計画で「魅力ある街」をつくり出そうとする、この「落差」をどう埋めたらいいのか、それがいちばんの大きな問題だと考えています。
2020年、生まれ変わりつつある「渋谷」を見せる
渋谷はJRを始め、地下鉄や私鉄、さらには首都高速道など、過密な交通の結節点と繁華街が重なっていて、国内はもちろん、世界的にもあまり例を見ない都市構造となっています。
当初の計画を見て、「これでは渋谷はダメになる」という危機感がありました。すでに「ヒカリエ」の設計が終わり、われわれがほとんど手を出せない状態でした。それでもずいぶん無理を聞いてもらいましたが、これからできていく街区の「顔」となる建物には、当該の事業者にお願いして、隈研吾さんや妹島和世さん、手塚貴晴さん、小嶋一浩さん、古谷誠章さんといったデザインアーキテクトに参加してもらうことにしました。とくに「ハチ公前広場」の上の、僕が「渋谷のエリマキ」と呼ぶ建物は妹島さんにお願いし、東京の中心のひとつとなる広場に、妹島さんの柔らかい建築が登場することになります。
ただし東京オリンピックが開催される2020年には、このプロジェクトの3分の2の街区は工事中になっています。それをどう見せるのかは、これからの大きなテーマです。私としては「完成形」ではなくてもいいと考えています。むしろ、「これから生まれ変わっていく」というエネルギーがちゃんとプレゼンテーションされている方が、渋谷の面白さが伝わっていいのではないかと考えています。
<3>渋谷をデザインする
妹島和世(建築家)
渋谷の中心、「ハチ公前広場」をデザインする
いろんな人が関わるたいへん大きなプロジェクトですから、どこまでが決まっていてどこからが決まっていないのかちゃんと把握できていませんが、私は「ハチ公前広場」を中心に、渋谷駅西側の中低層ブロックとハチ公前広場から4階広場につながる動線空間の意匠を担当しています。第二期の工事で、一年ほど前に基本構想・計画がまとまったままになっていて、今日はそれをご覧いただきます。今後はさらに基本計画を詰め、実施設計に入っていくところです。
私は「広場」と「公園」の区別もついていませんが、担当する「ハチ公前広場」を立体公園としてつくれたらいいな、と考えて計画を進めています。というのも、現代都市は交通と人と建築の結節点として提起されてきたという、先ほどの磯崎さんのお話がありましたが、これからはさらにもっといろんなモノやコトが重なり合う場所になっていくでしょう。ですから、もう少し幅広くモノやコト、人が集まってくるような公園にしたいと思ったからです。
渋谷駅は、みなさんもご存知のように、周りから流れ込んできた谷のような地形のいちばん低い所にあって、人が自然に集まってくるんですね。ですから渋谷の駅に降りたら、ぐるりと囲まれたような地形のおもしろさがよくわかるような広場にしたいな、と。そういう地形が感じられることが、街にとって重要なことなのではないかと考えています。
人や交通の動きが見える街づくり
今回のプロジェクトでは、内藤さんの提案によって、どのビルも「アーバン・コア」をつくることになっています。そこでは、とくに人の動きが見えることが重視されています。多くは大きなシリンダー状の設計が多いのですが、私が担当する「ハチ公前広場」は広場全体のバランスを考え、他とは少し違って人の流れがそのまま視覚化されたような、少しゆらぎのある形でつくろうと考えています。
1階にはJR渋谷駅の改札、2階と3階にはコンコースがあり、3階は地下鉄銀座線が滑り込んでくる駅にもなります。もう1階上がると宮益坂や道玄坂につながるレベルですね。その一方では渋谷マークシティーともつながって、京王井の頭線が発着する駅があります。このようにさまざまなレベルの平面をつないだ立体の中に、スムーズな歩行者ネットワークをつくる。そのためにもいろんな場所に「広場」をつくっていき、それをつないで新しい渋谷の街の中心をつくる、そういうイメージを描いています。
とはいえ渋谷にはたくさんの歩行者がいますから、「広場」といってもそれは同時に広い通路でもあって、つまり広場と通路の中間のような空間という方が近いかもしれません。そうしたいろんな人の動きのつながりを、そのまま屋根や床として視覚化したい。それが渋谷のいろいろな場所から見えるといいですね。
1階のJRの改札を出ると銀座線を見上げたり、井の頭線からそのままスクランブル交差点に降りられ、その先には山手線が走っていくのが見える。銀座線を降りれば、コンコースやスクランブル交差点を行き交う人たちの流れが見える。というように、駅のどこで降りても、行き交う人や交通の動きが見えるようにしたいと考えています。それも、交通が集中しているというイメージではなく、逆に動いて広がっていくようなイメージです。その意味では、「広場」といいながらあまり留まれるような場所ではなく、常に動き回っている状態を表現したような場所になるのではないかと思います。
<4>座談:磯崎新x内藤廣x妹島和世
コーディネータ:羽藤英二(都市工学者)
「アーバン・コア」という考え方
羽藤:今妹島さんが言及された共通の概念としての「アーバン・コア」の考え方について、少しご説明いただけますか。
内藤:「コア」とは、もともとは丹下健三先生か、ひょっとすると磯崎さんが使われた言葉かもしれませんが、ここでは独自の用法で使っています。
これから超高層や商業施設ができてきても、それらはセンター・コアの単なる箱(アイスボックス)で、階を行き来する人の動きは建物の中に抱え込まれてしまいます。それでは人の動きの見えない都市になってしまう。ですからそうした建物の上下の導線を都市の側に引っ張り出して、見えるものにする。それがアーバン・コアの考え方で、担当する建築家の方々にも相当な無理を言ってやってもらっています。
最初の「ヒカリエ」も設計はおおよそ決まっていましたが、センター・コアを無理やり手前に引っ張り出すようにお願いして、現在のような形になりました。他の街区もそれに倣ってください、と。で、妹島さんの担当はアーバン・コアの親分のような施設ですから、上下の人の動きが見えるというポリシーは守りつつ、かなり自由にやっていただいています。
妹島:私の担当する場所は人の動き、交通の動きがつながることが第一ですが、どこにいても空が感じられ、暗くならないことを意識しています。アーバン・コアの考え方がもう少し早くから提示されていれば、決して統一する必要はないとは思いますが、個々で努力するだけではなく、もう少しディスカッションして連携が深められたのではないかと思います。
磯崎:「コア構造」は丹下健三・都市・建築設計研究所(丹下研)が日本で初めて実現し、僕も推進したひとりです。そこにはエレベーターなどを含む超高層ビルのコアは、建築というよりも都市のインフラであるという意識がありました。超高層建築と地上の都市のつながり考えるには、唯一コアを手がかりとするしかなかった。それを今回アーバン・コアというかたちでより自由に組み立てるコンセプトを考えられたことはとてもよかったと思います。
羽藤:現在は大深度地下を走るリニア中央新幹線と地上都市を結ぶ縦移動など、コアの問題も都市のインフラとして考えなければならなくなってきました。渋谷のスケールではまだ建築的なアプローチで問題が解決できるかもしれませんが、もう少し大きな都市計画では、コアの問題もより広範なインフラ的なアプローチが必要になってくるのだと思います。
渋谷駅周辺再開発プロジェクトのゆくえ
羽藤:ところで渋谷のプロジェクトは、現在のところまでは順調に推移しているのでしょうか。
内藤:それはわかりません。というのも、初期投資と収益のバランスばかりで判断するビジネスモデルは、もう古いのではないかと思うからです。現実には情報通信の進展によりオフィスでの働き方はガラリと変わっていて、その大きな落差が埋められるかどうか、危惧を抱いています。きれいな超高層も、できてみると上半分は空家のまま残ってしまうかもしれない。逆に、渋谷が世界でも屈指の魅力的な街になれば、この計画のキャパシティでは不足かもしれない。そのあたりが深く考えられていないことが心配です。
羽藤:事業主体は個別にあって、それぞれ目的が異なりますから、デザインはその目的をかなえる必要がある。しかしそれだけを重ねていくと、都市全体は必ずしもよくならない。これからは、都市の全体を考えることができる職能が求められるでしょうね。
妹島:渋谷に超高層ビルを建てるということには、正直、違和感がありますね。先日ある超高層ビルのオフィスを訪ねると、駅に直結する便利なビルの中に散歩ができるようなオフィススペースから考えれば無駄なスペースがつくってあるんですね。もちろんそれは無駄ではなく機能しているのですが、その時間を使って外を散歩すればいろんなことに出会うことができ、よりリフレッシュできるのではないかと思いました。
先ほどもお話ししたように、渋谷は独特な地形をもっています。一概に同じ超高層ビルを建てるのではなく、その場所の地形なども考え合わせた計画ができるといいでしょうね。
磯崎:僕は最近、中国の成都にできた世界最大の単体ビル「新世紀環球中心」に泊まることになって、ひどい目に遭いました(笑)。延べ床面積150万平米。小さい都市がまるごと入るくらいの大きさです。これは都市と建築を間違った例だと思いましたね。都市のスケールを一軒の建築にしてしまったために、ものごとがすべて10倍に薄まってしまった。ホテルにチェックインしても、部屋まで500mも歩くんです(笑)。
今世界中で巨大開発がなされていますが、デザイナーや建築にはまったくアイデアがありません。従来と同じようにコアとシェルがあれば建築ができるという単純な頭で建ててしまうから、われわれユーザーはゴミのように扱われてしまう。こういう事態が世界中で起こっています。
渋谷にはさまざまな障害があり、次々と手当てしていかなければならず、超ハイブリッドにならざるを得ません。しかしそこでいちばんのポイントは、いかに都市的なネットワーク、つまりモノや人の水平・垂直の流れのインフラを都市空間の中にどのように構築するか、だと思います。それにはもっと立体的な工夫が必要なんですね。そのきっかけは今回の計画に見ることができました。
内藤:都市計画はスパンが長いので、完成時には僕はもう生きていないでしょう。ですから種だけまいて失礼しようと思っています(笑)。渋谷の主役は、僕はやっぱりハロウィーンに集まった人たちだと思っています。彼らがなぜ集まるのかが理解できないと計画を間違う気がしています。今はスマートフォンですが、10年後はゴーグル端末をかけて情報を交換しながら集まってくるかもしれません。あるいはハードウェアは古典的でも、そこには新しい情報が乗っているでしょう。われわれはそういう未来に向けて、都市をつくっていることを、常に意識しているべきだと考えています。
羽藤:若い学生に渋谷の都市計画の課題を出すと、「生きよ、大地とともに」といった高層ビル否定のプランがよく提出されますが、それが若い人たちの素直な感覚でもあると思います。今後プロジェクトが進んでいけば、もっと多様な動線のつなぎ方のアイデアが、単に平面だけではなく立体的にも見えてくるのではないでしょうか。
「東京デザイン」に向けてのメッセージ
羽藤:では、最後に一言ずついただけますでしょうか。
磯崎:都市は都市の、建築は建築の職業的な利権がありますが、「計画(プランニング)」という唯一の共通性で手を携えてきました。そして20世紀に登場したデザインには、新たに情報やシステムという概念が含まれていました。僕は都市、建築、デザインをまとめる言葉として、建築を言い換えた「アーキテクチャー」を使いたいと考えています。デザインは何かをまとめて動かすきっかけとなる言葉ではありますが、やはり制度としても、もっとロジカルに組み立てられる必要はあるでしょう。僕はそれを建築でやってきましたから、もう付き合えませんが、デザインが都市や建築に関するさまざまなシステムや情報にまで踏み込んで、都市計画家や建築家、あるいはエンジニアたちと対等に議論ができるようになってほしい。そう希望しています。
妹島:私たちは街について考えることをほとんど放棄してきたように思います。東日本大震災の後に東北の小さな集落を訪れると、みんなが「これから自分たちの集落をつくるんだ」と意気込む光景に出会いました。それを見て、「ああそうか、自分たちの住む街は自分たちでつくれるし、つくる義務があるんだ」と教えられました。そう考えれば東京でも何かできるはずなのに、どうしていいかわからなくて途方に暮れる。そんな私自身の姿を思い出しました。
私たちは「どこから来たの?」と問われて「東京」と答えるけれども、何をもって「東京」と言うのか。「東京って何?」と聞かれたら、途端にわからなくなる気がします。ですからもっと具体的な、小さなエリアの使い方から始めてみてはどうかと考えます。それがひとつ。一方では逆に、東京だからこその「とらえどころのない場所」をもっと先鋭的に追求していくことも必要ではないかと感じます。これからの東京に向けて、この2つの方向性を考えるべきではないかと思っています。
内藤:僕は「いい街をつくらないと滅びますよ」と言いたいですね。代官山の駅前にITの先端企業がありますが、大きなオフィスビルから街へ移ってきて、街の情報に触れ、社内も活性化したそうです。いい街にいるかいないかはとても重要ですよね。
もうひとつはやはりIT関連ですが、若者が集まり、情報コンテンツが豊富な渋谷にわざわざ移ってきたという企業もありますし、代官山と渋谷の間に拠点を構えた企業もあります。これからの最先端のものは「いい街」、「情報量の多い街」を選んで登場してくるし、そういう場所が栄えるのだと、僕は考えています。渋谷も駅周辺の中心街区だけではなく、その周辺も広く情報が飛び交うような面白い街になってくれれば、大丈夫だと思っています。
羽藤:どうもありがとうございました。